昭和57年1月1日   朝の御理解

                    
x 御理解第61節
 「神より金光大神に何時までも尽きぬおかげを話にしておくのぞ信心しておかげを受けたら神心となり人に丁寧に話をして行くのが真の道を履んで行くのぞ金光大神が教へた事を違はぬやうに人に伝えて真の信心をさせるのが神への御礼ぞこれが神になるのぞ神になりても神より上になると思ふな」


 昨日必ず毎年カレンダ-を持って来て下さる方があります。仙崖さんのカレンダ-です。出光さんの所から出てます。その1番始めの所におめでとう(御芽出度う)と書いてありました。そのおめでとうと言うのは芽が出ると書いてあります。
 今日は皆さんが明けましておめでとうと、まあ本当言うたら、もう日々がおめでとうございますとこう言い合える仲に育っていかなければならんと思うんです。ならめでたいと言うのはどう言う事なのかね。仙崖さんが言っておられますように芽が出ると言う事だと思うですね。その芽が枝にもなり葉にもなりいわゆる教祖金光大神が仰せられますように「目出度目出度の若松さまよ枝も栄える葉も繁と言ふではないか。金光大神は子孫繁昌家繁昌の道を教へるのぢゃ」とこう仰せられるね。
 いわゆる家繁昌子孫繁昌の芽が限りなく出来ていくと言う所に「御芽出度う」と言う内容があるんだと私は本当にそう思います。芽が出ると言う事を御芽出度うと言われる。神より金光大神に何時までもつきぬおかげを話しにしておくのぞ。いわゆる金光大神が教えられる事はつきぬおがけの頂けれるお話なんです。
 いわゆる親の代より子の代で始めてめでたいと言う事が言われると思うんですけども、そのつきぬおかげが頂けれるお話を只聞き流すでなくてね。自分のものにして行くと言う事、自分の血に肉にしていくと言う事。自分一家のひとつのまあ家風にもしていくと言う事ね。それが代々伝わっていくと言う事ね。
 それが大変に難しい事であるとするなら、なかなかですけれどもそりゃ誰でも…何でも同じなんです、その気にならなければやっぱ難しいです。聞いとるだけではね。いかに合楽理念にもってすればと言うてもね。
 昨日の朝から昨夜の除夜祭にも頂いた事でしたけれどもね。お道の信心の根本は「日々の改まりが第一」であり「本心の玉を研く」と言う事だと教祖は仰っしゃっとられます。もう本心の玉を研く事が信心なのだ。日々改まっていくと言う事なんだ、信心とはね。
 そこで改まりもしたい、研きもしたいと思うけれども研いたかのようにあっても又錆が出ておるとかね。改まったと思うておるけれども又元に戻っておる。これではやはりどうどう回り、いつまでたっても、そりゃあ金光教の信心が言うなら百年なら百年と言う長い間沢山な人がおかげを受けてきておる。受けて来ておるけれども教祖が教えられるようにね。つきぬおかげを頂いていっておると言う人は実にごくまれであるね。
 親の代より子の代、孫の代といわゆる末繁昌家繁昌のおかげを受けておる人も又まれである。教祖金光大神が嘘を仰っしゃっとられるのかね、教祖金光大神は嘘は仰っしゃてないね。だから私共が教祖金光大神のみ教えをいよいよ実験実証さしてもろうて、こんなにも間違いがない教えであると言う事を実験実証すると言うことは、金光大神のお言葉を言うならば間違いがないと実証する事になるのです。
 私共お道の信心者の一人一人がね。その金光大神のお言葉の実験実証者にならなければならないと思うです。誰でもそんなら一つそげん実験実証者になりたい、まあ金光様の御信心頂いて少しはお話を頂き出すとね。天地書附ね、本当におかげは和賀心にありと仰せられるから、いよいよ本気で和賀心にならせて頂こう。本心の玉を研こう又改まろうと思うけれども、その難しいと言うかね。いつの間にかどうどう回りの信心になってしまっておる。その証拠にはおかげが堂々回りであると言う事、これはね確かに日勝り月勝り年勝りにおかげが頂けれるんですよ。
 今私ここへ出てまいりましたら、ここにこんな書いたものがここにおいてあるんです。目が薄いからそれこそ虫眼鏡でよく見せて頂いたら、ここ5、6年のお届け数が年々歳々に増えておるのをここに昨日みんなまとめたものがここに書いてある。去年1年でのお届け数がね、53万4864名と言う事になっておる。その前の年が47万、6万からのやっぱり増えている、これはもう毎年増えていってるんです。これが5、6年分がここに書いちゃるね。一遍でも下がったと言う事がない。ずーっと何万ずつかこうやって増えていっておる。 いわゆる金光大神のみ教えを私は実証しとると言う事になるでしょね。なら皆さん達が合楽に御縁を頂いて5年、10年又30年も続いておる方達がです。やっぱりこの家繁昌子孫繁昌の言うならば、日勝り月勝りのおかげを頂いておられるかどうか、頂いていないなら、これはちっとおかしいなあとやっぱ思わないけんね。
 これは財産とかこのお届け数だけに限った事ぢゃありません。もう一事が万事にそう言うおかげが表れてくるおかげ頂きたい。
 昨日も朝から、昨日はまあいよいよ最後ですから、まあ普通はお参りの出けない方でも、又遠方は遠くからです。今年も大変おかげを頂いてと。なかにはいっちょん参ってこんな、電話だけでお願いをしておかげを頂くと言うような人もある。
 やっぱ昨日も電話で御礼のお届けである。来春になったらどうでもいっぺんお参りしたいと思うと言ったようなおかげを頂いた。もう何かこうここへ来た事がない人は分からんのでしょうけれど、何かこう電話を受けといてから、どうぞ今日ちいうごたる風な調子で毎度有り難うございますといわなんごた風な感じで電話のかかってくる人がありますよ。
 もう簡単にもうおかげを受けてるんですよ。はあどうも有り難うございますち、言うような口調で答えんならんような、言うなら程度でね。神様を何と思うておるかと言ったような感じのもあるけれども神様はそんな事には無頓着。おかげをくれと言うからおかげ下さるのである。
 けどもこれではね。まあ別に昨日は1日お取次させて頂いた、ほとんどがそうでしたが。信心も出けませんのに広大なおかげを頂いて、こん年1年無事に過ごさせて頂きましたと言う方達。今年、特に目立ちましたのは、もう2、3日前にいつもぎりぎりまで、例えば集金など回らなければなりませんけれども。今年はもう2、3日前、2日前と言うふうにですね。その一日ずつでも早く正月を迎えられる準備が出けると言う人達のお届けが多かったですね。
 最近今ここで目だってお届けの多いのはもう日々実験実証のすさまじさを体験してられる方達のお届けが毎日です。毎日もその1人2人ぢゃないです。
 もう例えば昨日、ここの大城と言う所から吉田さんと言う方が丁度、ここの1月13日が丸1年になるんだそうでございますが、1年間日参のおかげを頂いてもう本当にこの金光様の御信心を頂くようになって、毎日が嬉しうして楽しうして、もう兎に角毎日毎日が実験実証なんです。いや本気に取り組んでくるんですね。
 昨日も1年の1年位でまあようもこの位にお育て頂いたなあと言うて。だから特別の言うなら家が建ったとか助からん命が助かったとか、商売が繁昌してこんなにと言うのぢゃなくてね。兎に角その日々の中に生き生きとした神様を感じ続けての1年間であったと言う事なんです。それでいいと思うです。それが育っていく、それが豊かに大きくなっていけば、おかげも豊かに大きうなっていかんはずないですね。 
 実験実証させて頂く、もうこれはいよいよもってその合楽理念の実験実証が楽しくうなると言う事ね。お願いをしておかげを頂くではなくて、お願いをして言うならば今日も一日合楽理念の実験実証に取り組ませて下さいと言う、そう言う生き方を身につけない限り、今日頂く、つきぬおかげにはなってこない。
 親の代より子の代と言うようなおかげにはなってこない。昨日一日私がお届けさせて頂いてね、特別思うたのはですね。信心も出けませんのに今年はおかげを頂いてと言う方達のお届けを聞かして頂きながら、ほんなこつ信心な出来とらんのち一人一人言いたかった。それでもならおかげを受けとる。
 だから信心が出けたらどう言う事になるだろうかね。必ず言うならば限りないおかげに触れていけれる、いわゆる御神徳が受けれると思うです。もう合楽の信心な御神徳を受けるお話ばっかりなんです。日々神様を身近に実感する、神様の働きの一分一厘間違いのない事とそれを実感すると言う事がいよいよ神様を確信して行く事、その確信が産むおかげ。その確信がそのまま力ともなり、又は徳ともなっていくのです。 
 合楽の場合は言うばっかり、話しばっかりぢゃない。実際になら教会自体がそのようなして皆さんに実験実証をさせて頂いておる、その話を皆さんにも聞いて頂くのだから、皆さんも又実験実証させて頂いてね。今日の御理解ぢゃないけれども、それを人に伝えていくのが神への御礼ぞとおっしゃるね。
 昨日の朝の御理解の中にも申しましたようにです。成程本心の玉を研くと言う事も改まると言う事も、成程改まりもしよう、研きもしようと取り組んでみるけれどもなかなかもって本当な事になっていかない。おかげは和賀心にありと仰せられるから、どうぞ今月今日ただ今を和賀心にならせて下さいと祈ってもみた又願うてもみた。けれどもこれが和賀心だろうかと思うような心が開けてこない。
 これが私は過去金光教の信者のほとんどの信奉者がそれを繰り返して来た事だと思うんです。ところがなら合楽ではですね、言うならば商売は合楽理念をもってする他ない。百姓は合楽理念をもってする他はないと言うふうに私は天地書附は和賀心をたいする、又は日々の改まりが第一、本心の玉を研くものぞやと仰せられるような難しいと思うておった、その難しいお話はね。
 昨日の御理解の中にもそれこそ下から上へ水を流すように難しいけれども辛抱して行く間には徳が受けられると言う昨日の御理解はそうでした。ところがその辛抱しておるけれどもお徳が受けられんで、これはならお道のならお道の教師でもそうです。大変真面目な先生で、これはもう御結界に座り通しで辛抱強い先生と言うても、なら一生かかられてもね。  
 ある教会の先生なんかは、とうとう御結界に座りぬかれてね、誰もお参りがなくてね。お供えも何もないもんだから、かつれ死にをされたと言う先生すらあるくらいです。ですから、只の辛抱ではいけないと言う事が分かるでしょう。間違いのない絶対の言うならば信心を芯にしての辛抱でなからなければいけない。
 ここ2、3日私が申しておりますようにね。合楽に傾倒するいわゆる合楽にぼうける位にならないかんけれども、ぼうけただけではつまらん。気違いにならなきゃね。それこそ皆がもう信心気違いと言うくらいにです。ね気違いと言うのは笹をかたげて歩くと言う気違いではなくてね。
 気がちごうていく心がね。人間から神様へ向うて進んで行くと言う気違いに。あの、あの人はもう合楽にぼうけちござっと言うだけではおかげにならんです。そのぼうけるほどしの自分の心が有り難うなって行く事を喜びとする信心になっていかない限り。
 本当に去年の私と今年の私、自分の心を思うた時にです。いつのまにかこう言う心の状態が開けてきたのであろうかと言うほどしのおかげを頂かないかぎりね。だから合楽理念、言うならば和賀心を身につける事も改まる事も研く事もです。
 合楽理念を行じておれば、いつのまにか和賀心が開けてくる。和賀心になろうときばらんでも、研こうと思い改まらろうと思わんでもね。合楽理念に基づけば必ずいつのまにか心が豊かに美しゅうなっていっておる。まあいつの間に自分が自分ながら自分の心が拝めれるような心の状態になっていけれる。
 これはもう合楽理念を行ずる以外ないと言う事に、まあここ2、3日私は話しております。そして難しいと思うておった事が難しゅうない難しいどころか。昨日の吉田さんのお届けぢゃないけれども、日々が楽しゅうして有り難うしてと言う事になってくる。しかも愉快にまでなってくるね。天地のリズムを聞く事が出来るようになってくる。 
 今朝から私はいつもより20分ばかり早くおこさして頂いて、と言うのもお夢を頂いておったんです。ここの楽長は私の従姉妹になるわけですが、お月次祭の時に一番はじめに音頭を出します。もう75か6でしょうか、私より7つか8つか多いですかね。とてもお婆さんの声とは言えんでしょう。もうマイクを使わんでも、もうお広前中に響きわたるでしょう。
 私は昨日もそのお月次祭の時思うたんです。こりゃどうしても田中さんが音頭を出さなければ弾きまわさんです。こりゃ踊りでもそうですばいね。踊りばそろおっと、なら地方が唄うたり下手だったらもう踊りは踊られんです。それこそ踊りは下手でも唄の方でひきまわす。田中さんのあの声はとにかく斉員の動きを弾きまわすです。
 こちらで拝んでおる、なら皆さんの場合でも何とはなしに弾きまわされる思いがするでしょう。そろおうっと言う何言いござるか分からん。昨日下がる時には何か声こうまか人が唄いよったけん。いっちょんこう立ち上がろう事なかうごた感じがするね。ハッここで立ち上がらんならん。もう兎に角もうその唄。いわゆるそのリズムに乗ってお祭りが出来る、z『その楽長のね、田中さんに一つどうでもあの、あれは何と言うか黒田節をね稽古したいから、唄を唄ってほしいと言うてお願いに来ておると言うお知らせであった』
 もうお知らせと思うです。今朝からのお夢はね。皆さんも知っておられるでしょうが、それこそ酒は呑め呑め呑むならば日の本一のこの槍を呑みとるほどに呑むならばこれぞ真の黒田節と言うのですね。お酒の事はいわゆる御神酒とこうおっしゃるね。
 神酒と言うのは、有り難き勿体なき畏れ多きの神酒ぢゃとおっしゃる。しかも日の本一と言うようなおかげを頂く為にはね。その有り難き勿体なきが、それこそ酔うほどにですね、頂かなければね。暑いも寒いも感じないくらいに有り難くなってこないといけないと言う事だなあ。まあ元旦のこの朝に頂いたお夢ですから、これはいよいよ私だけではない、合楽の信奉者全部が今年は一つ黒田節でいけとね。日の本一を目指せとね。
 今年は合楽は日本一になるかならんかと言う瀬戸際z『いわゆる30年前にまあだ、私が難儀困迫の修行の時にね。10人余りの人がこうライン上にこう並んでいてから、今からこうマラソンか何かするような状態ね。今神が育てておる選手は10人なら10人おる中でその中にお前も入っているとね、日本一をめざせと』
 これは30年前のとてもとても夢にも思わない事、思えない事でした。その時分としては、ところがどうしてこれはひよっとすると日本一になるか分からんと言う感じなんです。いいや日本一どころぢゃない。神様は世界一とさえ言うて下さるくらいである。勿論この世界一と言うのはね。昨日も申しました事ですけれども、人が助かると言う意味においての教えね。
 金光大神のみ教えが合楽理念に求められる人間が助かる幸福になれると言う事のこれはもう絶対、しかも人間が人間らしう生きながら我情我欲をね。いつの間にか除かせて頂けれる、和賀心にもなれる。改まっていけれる、研いてもいけれると言うほどしの合楽理念の内容をいよいよ身に付けていくならばね。今年はここの15年記念大祭、来年は100年祭、いわゆる30年前に100年祭をめざせと教祖がおっしゃったその100年祭がもう目前に迫っておる。
 勿論、例えばなら合楽から今毎日1000人参りのお届けがしてありますが、1000人のお参りがあったと…人数の点であったら大阪あたりの大教会からはね。それこそ何千人と言うてお参りされますからね。私は信心の日本一でなからないかんと言う事ですね。
 言うなら黒田節の日本一ぢゃなからないけないと言う事です。そしてなら、今日の御理解ぢゃないですけどね、つきぬおかげの頂けれる実証者としてのおかげを頂いてもらいたいと思います。
 去年今年ね、6万からの方達が増えておるようにね。また来年も再来年もいよいよ言うなら、和賀心時代を世界に13日会を世界に、放生会を世界にと言うような大きな願いを立てておる、皆さんも願っておられますがです。それには本気で一人一人がね。昨日も月次祭にね。楽人ともなると、言うならば楽の御用頂かなんならんと言う責任において人より30分なり一時間なり早く出て来ておる。
 総代さんの方は玉串をあげねばならんからやっぱり年末のギリギリ忙しい中を言うならば押してでもありましょう。やはり皆出て来ておるね。だから総代とか楽人だけぢゃない、今申しますように先だってから、ここで言われております合楽の信奉者が信奉者としての責任においての信心と言う事が言われとるでしょう。
 合楽の信奉者の一人一人がです。例えば15年祭をめざすね、目指して目指さんでも15年祭は必ず来るのです。けども15年祭を一つ境にまたそれこそ芽が出るようなおかげを頂く事の為にです。言うなら真をつくせとこう言うのであるね。
 15年祭を目指させて頂く事の為に合楽の信奉者の一人一人がですね。自分が一人お参りしなかったら一人御比礼がかげると言うぐらいな気持ちでね。私はいわゆる一人一人の責任においての言うならば信心が出け修行が出けたらね、もう間違いなし合楽は日本一になれるだろうと思います。
 日本一と言う事は世界一にも通じる事ですね。どうでもその為にはです。ただおかげを頂いたと言う事ではなくてです。信心も出けませんのにおかげを頂いてではなくて、信心も出けませんのにと言う事はどうでも、ですけれどもね。このような力を頂いて、こんなお徳を頂いてと言えれるようなおかげを頂く為にはね。いよいよ合楽理念による他はない。合楽理念の実験実証者になるより他にないね。そう言うおかげを頂いて人にもそれを伝えていくのが神への御礼とおっしゃるのですから、いわば伝えようと思わんでも自分がそうして頂いていったら伝えずにはおれんのですよ。
 昨日でしたか一昨日でしたか、石田先生達がああして毎朝お二人とも、今日はねお正月で子供達がみんな帰って来ておる、どうでも今日は合楽の信心のね、素晴らしい事を子供達にもどうでもゆっくりお話をさせて頂きたいと思うと言うお届けがあった。
 自分が有り難うなったら話さなきゃおれんのですね。そして真の信心をさせるのがまた神への御礼ともおっしゃるのですから、兎に角、合楽理念に基づけば和賀心にもなれる。研こう、改まろうと思うて出来なかった事も出けると言う事でございます。
   みなさん 今日は おめでとうございます。